【はじめに】
こんにちは!ayaと申します!
お手に取っていただきありがとうございます☺️
わたしのことを知らない人が大半かと思いますので簡単に自己紹介させていただきます!
・現在29歳
・富山で現役公務員保育士
・保育士歴8年目
・snsで保育士のコミュニケーション法について発信
今では人を応援する立場にいるわたしですが元はこんな明るい性格ではありません。
幼少期
幼少期、わたしの母はいわゆる育児ノイローゼ+職場環境劣悪で絶賛うつ病でした。
部屋の中は重たい空気が流れいつ母の感情が浮沈するかビクビクしながらの生活
わたしの言動ひとつで母の表情や行動がみるみる変わって行く様が本当に怖かったです。
母のため息ひとつに過敏に耳を澄ませ
そのため息の理由がわたしでないことを
毎日願いました。
そんな環境の中で気づけばネガティブ思考が身についていました。
怒られないために、落胆されないために
必死で「いい子」を演じ、少しでも母の意に沿わなかったと感じると執拗に自分を責めました。
そんなわたしが小学生になり、
何が起こったかというと
周りに強いやつが寄ってきました。
一緒に行動しないと怒ったり、お気に入りの玩具を平気で取ったり、悪口を目の前で言われたり
そんな人が友達(?)に多かった気がします。
まじでジャイアンだらけでした笑
わたしも強く言い返せないし、むしろ
「こんなわたしなんかと仲良くしてくれてありがとう」って気持ちでした。
強い子たちにとってもすごく都合が良いやつだったと思います。
そして家に帰るとなんで言い返さないの!と怒られるか弱い子に育ててごめんねと謝られる始末。
自己肯定感は無事死亡しました。
そしてさらに恐ろしいのは
強いやつ思考が宿ってしまうこと。
自分より劣っている人や部分を見つけて
いつのまにか心の中で否定する人間になってました。
この人よりわたしは大丈夫だと
安心したかったんだと思います。
高校デビュー
そんな自分をどうにか変えたくて高校デビューを機にまず見た目を変えました。
コンタクトに変えたり少し痩せたりしたおかげか声をかけてくれる子の幅が広がりました。
でも、中身はそう簡単に変わりません。
今まで強い子たちに
指示さてれいたわたしにとって
「何が好き?」「何して遊ぶ?」の質問にうまく答えられませんでした。
自分が何を好きなのかわからず
果たしてそれを好きな自分は
人から好かれるのか?
ということばかりに重きを置いていました。
そんなわたしだからか
はじめは話しかけてくれても
なかなか“クラスメイト“から
抜け出せませんでした。
そしてわたし自身も
相手の何気ない一言を過剰解釈して
はじめから人と深く関わることを
諦めていた気がします。
人生を変える出会い
そんな良くも悪くも
普通の生活を送っていたわたしに
転機が訪れます。
Mちゃんとの出会いです。
Mちゃんともはじめのうちは
上辺のお付き合いでした。
とりあえずニコニコして
たまに話をするくらいの関係性。
仲良くなれたらいいなと思っていた矢先、人間関係の一悶着があり避け合うようになってしまいました。
「友達作るの向いてないのかな…」
と暗い気持ちで朝、学校へ向かうと
Mちゃんが1人教室で待っていました。
そして、わたしに向かって来てくれたんです。
ですが、わたしはどうしたらいいかわからずパニックになり、とりあえず逃げました笑
走って逃げて、トイレの個室に入りかけた時、ドアをこじ開けてMちゃんも入って来たんです!
驚きと苦しさと嬉しさと色んな感情が混じって2人でわんわん泣きました。
側から見たらそれはそれは
異様な光景だったと思います。笑
でも私にとってはじめて
自分の感情をぶつけることができた相手でした。
感情的になることも、自分の意見を言うことも無意識に「悪」だと思っていました。
でもMちゃんは
避けられて悲しかったこと
あなたと仲良くしたいことなど
すべて「わたし」を見て聞いてくれた。
Mちゃんも、わたしが他の子と
仲良くしているのが悔しくて
避けていたことを知りました。
そこから友達が増えていくのに
時間はかかりませんでした。
Mちゃんの広い人脈にも助けられて
充実した高校生活が送れました。
うまくいかない人間関係があっても
「Mちゃんが全力でわたしを認めてくれる」ことが、わたしを強くしました。
そして、好きなものを好きと言える喜びを知りました。
嫌な時には断るという選択肢があることも知りました。
母にも少しずつですが自分の気持ちを言えるようになりました。
自己肯定感の復活
それからというもの
わたしの自己肯定感は急激に回復し
Mちゃんとも
「私たちって世界一かわいいね!」と
言い合う仲になりました。
自分自身を認めて信じてくれる存在が
1人でもいることが
こんなにも力に変わることを
身をもって知りました。
失敗しても、
その失敗すら愛しく受け止めてくれる!
と心から信じられる人がいることで
表情も明るくなり、視線もおのずと前を向き行動力も付きました。
保育士になった理由
ポジティブマインドを身につけ
自分の好きなものを
好きと言えるようになったわたしに
次に立ちはだかった大きな壁…
そう、進路希望調査です。
特に大きな夢も希望もなく、
相手が良いと思うものを選んできたため
自分の将来をその時になって
初めて真剣に考えました。
なんとかヒントを得ようと
押入れから卒園アルバムや文集を
引っ張り出してきて
「将来の夢」欄を確認しました。
ウエイトレス、トリマー、デザイナー、
イルカショーのお姉さんなどなど
意外にも色々と書いてあり喜んだのも束の間
隣の友達と全く同じことを書いてました。(何となく予想してたけど、
過去のわたししっかりしてくれ!!)
そして「将来どうなりたいか?」という問いに答えが出ないまま三者面談に突入しました。
夢を語れない自分への負い目と母からのプレッシャーでなにを話したのか覚えていません。
進路希望調査表にはとりあえず父母と同じ国立大学名を書いておきました。
「どうしてもこの大学に行きたい!」
という強い思いもなく
ただただ受験しなければ!
どこかに合格しなければ!
という気持ちだけで過ごしていたある日
ふと中学時代の職業体験で
保育所に行ったことを思い出しました。
今だから白状するのですが
当時わたしは子どもを舐めてました。
コミュニケーションが苦手だった私にとって
自分から動かなくたって話しかけてくれる
対応を間違えても関わり続けてくれる
私の何でもない声かけに
「先生大好き!」って返してくれる
正直、子ども相手の仕事ならコミュ力低くてもいけるんじゃ…?って気持ちがどこかにありました。
そんな安易な考えで
「教育学部」や「保育学科」が
私の進路先候補に急浮上しました。
受験失敗?!
模試も希望する学科はA〜B判定で
余裕をかましながらセンター試験当日を迎えました。
そんな適当なわたしに
神様がお怒りになったんでしょうね。
本番当日わたしはとんでもないミスを冒します。
それは英語の試験中に起こりました。
最後の問題を解き終えてマークシートを
塗り潰そうとした時、違和感を感じます。
「あれ??一マス余る…」
背筋を嫌な汗が流れました。
時計を見ると残り5分。
焦ったわたしは何を思ったか
消しゴムで全てを消し始めたんですね。
消しゴムをかけずに提出していれば
ラッキー点が当たったかもしれないのに
それに気づいた時には
すでに終了の合図が鳴っていました。
そしてその後のリスニング問題は動悸で聞こえるはずもなく
2日目の数学と社会も切り替えができず
ボロボロの結果でした。
かといって浪人する勇気も
県外の大学に行く勇気もなく
塞ぎ込み食事もろくに食べないわたしを
さすがに見兼ねて、父母が県内の私大受験を勧めてくれました。
費用は予定の数倍になっただろうに、その道を切り開いてくれたこと今でも感謝してもしきれません。
そしてその私大のやり方がわたしに合っていたのか、保育の面白さにたくさん気づかせてくれました。
そして就職の時期になり、私大に入れてもらった分の恩を返すつもりで
保育士としては金銭面が安定している
公務員保育士を目指し勉強を始めました。
当時、負けず嫌いの性格やストイックな部分が頭角を表し始め、
驚くほど「受かる」自信しかありませんでした。
し、今回こそは受からなきゃいけない!
という強い想いがありました。
大学受験のことがあったので母も心配して、色々言われましたが
「絶対大丈夫だから信じて!」と珍しく母の意見を一刀両断して、公務員試験一本のみ受験しました。
そして功が奏したのか、一発合格。
一気に自信を取り戻した瞬間でした。
SNS発信する理由
保育士という仕事は、子どもはもちろん
同期、先輩、後輩、保護者・地域の方など、1年間だけでも数えきれないくらいの人と関わります。
わたしも8年の経験年数の中で約3000人の方々と関わらせていただきました。
(自分で計算してみてびっくり)
もちろん得意な人苦手な人、様々なタイプがありました。
これまで無意識的に、わたしを好いてくれる人を選んで人間関係を築いてきたわたしにとって
“苦手な人”を避けて通れない世界が
あることに正直戸惑ったし、慣れるまでが本当に本当に苦痛でした。
大学でも「保育士同士のコミュニケーション法」なんて授業はありませんでした。(お願いだから教えといて)
さらに人間関係の中でも
独特で閉鎖的な難易度の高い女社会。
しばらく避けて通ってきた
悪口や、派閥などさまざまな問題に
頭を抱えることになります。
色々な人間関係に触れてみて
私が発信をしようと
思ったきっかけが3つあります。
理由①
保育士2年目の時
いわゆる「新人嫌い」の先生と
組むことになりました。
「1年間何してたの?!」
「新人ってこれだから嫌い!」
と何度言われたか分かりません。
わたしにも非はあったかもしれませんが
その一言で、容易に自分の言動に
自信をなくしていきました。
分からないことが分からない中で
「間違ってないかな?」
「これで合ってるかな?」
と子ども達よりも、その先生の顔色を見ながら動くに動けない保育をしていました。
この生活があと1年続くと思ったら
身体よりも心が疲弊していきました。
朝が来るのが本当に嫌でした。
「うつ病」「辞表」「転職」
そんな言葉が、わたしの検索欄に並びました。
でも、私を好きだと言ってくれる子ども達を見放せず、何とか乗り切ることができました。
今では辞めなくて良かったと
心から思っています。
子どもが好きだけじゃやっていけないけど子どもが好きだからこそ何とかやっていけると、身に染みて感じました。
理由②
「こんな試練を乗り越えた私は
もう大丈夫でしょ!」とふんぞり返る間も無く
初めての異動先で、さらに保育界の闇に
ぶち当たることになります。
初日、挨拶にまわった時すでに違和感がありました。
できるだけ大きく明るく元気よくを意識して「よろしくお願いします!」と挨拶しましたが、返事が返ってきません。
聞こえなかったかなと思い、再度話しかけても一瞥くれるだけで会話のかの字も進みませんでした。
そして、数週間様子をうかがってみると
若い保育士さんの顔が死んでいることに気付きます。
その中でも年齢が近い後輩保育士から
たくさんの話を聞きました。
・当たり前のように全員定時で帰らない
・会議で発言権がない
・些細な物事が決まるのに何時間もかかる
・若い子達の言動が全て掌握されている
・所長よりも主査主任の権力の方が上
・主査主任が休みの日はクラス崩壊が起こる
・以上児未満児の交流が極端に少ない
・ストレスチェックテストは常に通院レベル
など、あげればキリがないほど
人間関係が底の底まで落ちていました。
そんな昼ドラみたいなことあるの…と
開いた口が塞がりませんでした。
が、異様な空気は私自身も初日に感じていたので腑に落ちた気持ちもありました。
その状況を見かねてわたしの正義が叫びました。
「市役所に連絡してみよう」
所長がダメならさらにその上をとその子と一緒に時間を見つけて電話をかけました。
するとすぐに視察と称して、保育課の職員さんが見にきてくれました。
これで何かが改善されるはず!という
期待とは裏腹に
「なんでこんな時期に急に視察がくるの?」と犯人探しが始まりました。
私たちの肩身が狭くなったのは言わずもがなです。
その子は「同じ園に話を聞いてくれる人がいるだけでも心強いです」と言ってくれましたが、やりきれない気持ちがずっと残りました。
コロナ禍で閉鎖的な空間がさらに閉鎖的になり、おかしな上下関係ができあがっていました。
そして、おかしいという考えさえもおかしな環境の中でこんなもんかと麻痺してしまっていました。
でも、当時の私にはそれ以上何もできることがありませんでした。
理由③
市役所に電話を入れたおかげか、次年度には職員がほぼ入れ替わり、少しずつ良い雰囲気を持ち直していきました。
そんな環境で出会った5歳の女の子がいました。
ピアノや英語、バレエに塾など、毎日のように習い事に勤しむ子でした。
頑張りすぎてないかなという私の心配をよそに
「今日は〇〇って曲弾くんだ〜」
「英語のコンテスト出たよ!」
といつも嬉しそうに話をしてくれました。
でも違和感は発表会の役決めを
している時に大きくなります。
「何の役したいかなー?」と子ども達に聞くと、
口々にあれやりたい、これやりたいと
あっという間に大論争になりました。
しかし、その子だけがニコニコ微笑みながら黙っているのに気づきます。
「〇〇ちゃんは何役がしたい?」と
個人的に聞くと
「ママに聞いてみないとわからない」
と答えが返って来ました。
まるで幼少期の自分自身を見ているようで、胸が締め付けられる想いでした。
一気に自分の過去がフラッシュバックしたのを覚えています。
大人側から見れば、
運動会の鼓隊演奏は完璧で、求めた答えが返ってくる
そんな楽なことはないです。
でも、幼少期のわたしは「自由であること」や「私らしさ」を誰かに認めてほしかった。
今、私はこの子にとってそんな存在の大人になれているんだろうか?
保護者に見せるための保育になっていないだろうか?
この子の心の声にきちんと向き合えているんだろうか?
そんな想いが溢れて、
これまでスムーズに進めようとしてきた
保育の在り方が180°ひっくり返りました。
まとめ
大人の人間関係に気を遣いすぎて
わたしはいつの間にか
保護者に嫌われないための
保育士仲間から排除されないための
大人に向けての保育をしていました。
自分が怒られたくないから、嫌われたくないから
子ども達を話題の矛先にして「あの子気になるよね、変だよね」って、大人同士で盛り上がったこともありました。
子どもがどれだけ大人の顔色をうかがっているか、幼少期に痛いほど学んだはずなのに
わたしはそれをすっかり忘れて、大人がスムーズに動けるような保育をしてしまっていました。
保育士は多忙です。
忙しさに殺されることも本当に多いです。
“働き方改革”が施行されても
何が変わったか正直わかりません。
だから大人の思うように
進めざるを得ない状況があることも
よーーく分かります。
保育経験を経て、子ども達を動かす技術も培ってきました。
でも、私たちは決して軍隊を作っているわけじゃない。
ロボットを生産しているわけじゃない。
忙しすぎる環境の中で、強く厳しく変貌し、「こんな人が子ども見ていいの?!」っていう人も一定数います。
自分の権威を守るために、人を平気で傷つける人もいます。
でも子どものために負けないでいたい。
子ども達一人ひとりの良さを伸ばす関わりがしたい。
時にはみ出しても「それもあなたらしくていいね」って言える保育士であり続けたい。
そして、そんな保育士が増えることで
子ども達の自由が保障されると信じて
私は発信し続けます。
少子高齢化がどんどん進み
いつか保育士の雇用も少なくなると言われています。
でも絶対にAIや機械には取って変われない仕事です。
子どものためを想う保育士さんが閉鎖的空間の多数意見に潰されませんように
子ども達が人と揃えることを強要されなくても良い環境が増えますように
「あなたはあなたのままでいいよ」って
子どもにも大人にも言える世界が広がりますように
そんな想いを込めて…
何か共感していただける部分があれば幸いです。
最後まで読んでいただき
ありがとうございました。
コメント